歴史探訪 建花寺編(福岡県飯塚市)

明星寺五重の塔建立の勤行など鎮西上人がこの地に印した偉大な業績は、ひろく大衆の帰依するところとなって仏教の隆昌は往時をしのいだ。
今に残る飯塚・木屋ノ瀬の地名は、昔日の面影の一端である。
800年前の上人の高徳が今もなを里人の心に伝わり、鎮西村の名称が生れたといわれる。
浄土宗に帰依改宗後の上人のこの地の消息は明らかでない。
さて再度の隆昌をみた仏教の地も栄枯盛衰は世の習いの例にもれず、安養・光妙の二寺はあるが、昔の面影をしのぶものはほとんどない。
静かな山麓の所々にわずかに残る跡を訪ねると、岩にしみ入る虫の音にも感慨無量のものがある。
(鎮西村誌より抜粋)



安養院(建花寺本村)
建花寺字荒巻にあり。
この寺はむかし、報土山と号した。
本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。
現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって昔仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。
安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀二年(771)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。
その後・建久三年(1192)浄土宗第二相・鎮西国師法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。
天正九年(1581)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ。
元禄二年(一六八九)現在の地に一小宇を再興したということである。
現本堂は前住職二十一世長崎宝誉の建立したるものである。
(鎮西村誌より抜粋)

安養院(建花寺本村)の歴史
現在、建花寺本村荒巻にある安養院は昔、山号を報土山、寺号を禅定寺といいました。

安養院の安養とは、心が安んじて、身を養う世界、ここでは、阿弥陀仏の浄土を言います。
この上もない平安な悟りのことを言います。
「一生悪を造り続けるけれども、阿弥陀様の深い心に遇うならば、心から安んじる世界で、身を養い、さとりを証することができるのです。」
報土山の報土とは、阿弥陀様がいらっしゃる極楽浄土のことをあらわし。
禅定(ぜんじょう)は、心を統一して瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。

本尊は阿弥陀如来を安置し、伽藍は本堂横五間、入五間で、浄土宗鎮西派本誓寺末寺となっています。

阿弥陀如来・・空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。
現在、大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって昔仏教が隆昌であつたころの名残といわれる。

大日如来・・密教において宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な如来法身仏)の一尊。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日という。

安養院の沿革によると、人皇第四十九代、光仁天皇の御宇宝亀2年(771一宇を建立し、行基菩薩、この地に錫を留められ自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像を彫刻して、安置したのが現本尊である。