旧・鎮西村(福岡県飯塚市)・・残る昔話(1)

鎮西上人と伝説(第1話)
昔、明星寺に鎮西上人という偉い坊さんがいた。
この坊さんは香月(遠賀郡いまは八幡市)の人で7才の時、大日寺菩提寺で小僧さんとなって勉強し後明星寺に移り、ますます勉強に励んだ。
その頃師の坊さんから「しきみの薬をとれ。」と命令されたことがあったそうな。

いざ木に登ろうとしたが木は高くすべってなかなか登れない。
何度も苦心のすえやっと薬をちぎることができた。

このとき「学問の修業もこのとおりだ。」と悟ったらしい。

またあるとき虚空蔵様(明星寺の山中にあり。)の前で真っ赤にうれた柿の実に墨で黒々と丸と井形とそれぞれしるして,お願いしていうに「私がもし偉い坊さんになることができるならば無理なことだが,このようなしるしの柿の実をならせてほしい。」と。

そしてこの実を境内に埋めたのであるが,やがてみごとに丸印や井印のついた実がなったという。

この木をお墨柿といったが今は枯れはててない。

また,青年の頃,英彦山権現に1,000日参りの願をかけた。
そして一回英彦山に行くたびに松の木を一本ずつ植えて願かけの日数を数えた。

その原っぱを日数ガ原といっていたが今は訛って彼岸原という。

上人が英彦山に参る時はいつも白い衣を着て夜中に出発した。

村の人びとの間に「一つ目小僧が通る。」といって大さわぎとなった。

そこである夜鯰田の城主葦ガ谷右京という人が上人を目がげて弓をひいたところ矢は上人のたもとをかすめて空中に飛んだ。

上人は思わず叫んで「寿命めでたし」といった。
これが桂川町に寿命・中屋(中矢)と地名のついたのもこのことからであるといわれる。

このように勉強した上人はまだ勉強したいと比叡山にのぽり、仏教の奥義を学んだ。

そして帰郷し明星寺に五重の塔を再建するため全国行脚に出発した。

建立の材木も毎日.遠賀川をのぼり、木材運びの人夫が休むたびに木材の山ができたので木屋ノ瀬(鞍手郡いまは八幡市)の地名がついた。

五重の塔ができ上ったので近郷の善男善女がお祝いのご飯を持って参り、食べもしたが集ったご飯の白い山はいっこうに減らずついにご飯の塚ができた。

これが飯塚のおこりでそこを飯の山といっている。

その場所が器運山太養院(飯塚市本町)であったが後今の地にうつった。
また京郡から持ち帰った菩提樹の杖を立てていたのが芽を出して茂ったが、今北谷と南谷との間にある菩提樹である。

(明星寺の古老の話)

この話に出てくる鎮西上人とは・・



湯屋の池(明星ガ池ともいう)
明星寺土址の前から南に130段の石段を下った所に方2mほどの石垣で囲んだ小池があって、中に板石がある。

この池はこの村に7才の子が7人いる時だけ掃除するしきたりで今から130年ほど前にしたことがあると伝えている。

昔、この池に明星の光が怪しく映じたので明星寺の寺号としたという。

どうしたわけか、この池の水を産前に飲むと安産になると伝えている。

また千天のときこの池をほして雨請いするともいう。